宇宙
2001年度の3年選択授業「環境・宇宙」という複合授業の宇宙編です。
この授業は、疑問に思っていることを課題にしてみんなに解答をもらうという形式です。
したがって、以下に展開される宇宙論は、2001年度の履修生徒の宇宙論です。
ただし、4章と5章の間に行う占星術の実習は略します。
担当 小林
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始まり、誕生 ビックバンという宇宙の誕生 |
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モノとは(量子現象) 宇宙誕生の量子論 |
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生 |
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主体性と客観性 まとめ |
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自然の本性とは |
遠くを見ると過去が見える。
手紙という通信手段しかなかった時代には
日本列島というスケールでも
日本中の情報を知るには2,3日かかったでしょう。
宇宙というスケールでは、星と星の間隔が非常に大きく、
光りでさえスピードが遅く感じられます。
そこで、夜空に見える星の光でさえ
星達のもとを発せられたのは何年も前のことなのです。
たとえばオリオン座の左肩の一等星ベテルギウスは
西暦1520年のベテルギウスの光を見ているのです。
遠く過去の光ほど暗くなりますから
ずっと過去を見るには望遠鏡で光を集めます。
現在では、直径10mの円内の光を集めて、
120億年前の過去の光、過去の宇宙の姿を見ることが出来ています。
もっと大きい望遠鏡でもっと過去が見られるのでしょうか。
ビックバンという宇宙の誕生。
宇宙では星よりも星の集団としての銀河が基本的なものです。
天文学者ハッブルの観測により銀河どうしは互いにはなれていっていることが分かりました。
理論的には、ホーキングがアインシュタイン方程式を解き
宇宙自身が一定であることはまずなく、
必ず始まりがあり、しかも限りなく小さな一点から始まり膨張する。
その後は膨張しつづけるか、一点へと収縮し始めるかのどちらかであることが分かりました。
観測される膨張スピードを逆算すると
宇宙はおよそ150億年前には限りなく小さい一点だったことになります。
宇宙にある全てのものが一点に集まると、猛烈な高温になります。
したがって宇宙の始まりは猛烈な高温の一点だったのです。
この始まりの瞬間をビックバンと呼んでいます。
私達は、「過去のことが原因となって現在こうなった」という発想を自然にします。
この発想には「鶏が先か卵が先か」という難しい問題があります。
ビックバンは宇宙の全ての「物質」だけでなく
「空間」や「時間」そのものの誕生でもあります。
宇宙の誕生を考えるとその原因は、
この世に原因を考えるわけにいかないので
あの世の出来事が原因にでもなるのでしょうか。
1980年ごろヴィレンキンにより「無」からの誕生が提案され、
ホーキング等により時間は変質して「過去と未来」といった性質をもったが
変質する前は過去と未来の区別がない「虚数時間」であったとする提案があった。
ともに、「時間」そのものの誕生に工夫がこらされた案でした。
「無」とは非常に深く、会得するには大変難しい概念です。
ここでは「無」とか「虚数時間」とか一見わかったようで、
じつは実感のない単なる言葉の置き換えでごまかさずに
納得のいくストーリーを創作して下さい。
Re: 始まり、誕生
T.H.
ビッグバンの前がどうなっていたか、というのはたとえこれから人類が
いかに知識をもっていかに進化しようとも、絶対に分ることの無い部分だと思う。
つまり、科学的に絶対証明できないということ。
それは、ビッグバンがおきて初めて時間や空間や物質ができたから。
私達は、このビッグバンが生み出した時間に沿って空間の中で、意志をもって活動している物質だ。
時間に沿って私達が生きているから、前とか後ろとか、そんなことをいってたら何も始まらない。
前と後ろっていうのは、時間の流れがあって、初めてうまれる考えだから。
何も無い。存在しない。無。
これは、私達が広大な宇宙の中で意志をもって存在している限り、
存在しない状態は決して理解できることではない。
私は、17年生きてきて、これからだってのにうまくレポートを書く為に死ぬ気にはなれない。
もし、存在しなくなった(死んだ)としても、存在しないんだから
存在しないってのはこーゆー感じなのよ?とか伝えることはできない。
存在する為には時間が必要だし。
時間が無かったら存在しないし、逆に存在しなかったら時間も無い。
つまり私達が生きている限り、その生涯全部捧げたとて、
それは「ない」から説明できないのです。
これが1つ目の結論。
これじゃ課題をこなしていないことになるやもしれないので、
2つめもきちんとかきます。
無からエネルギーがそっからどうだーとかそーゆーのは偉い科学者におまかせして、
ここからは夢と希望に満ちあふれた17歳の思想を見て頂きたいと思います。
何も無い所から宇宙がうまれるなんておかしいじゃないか!
というツッコミを予想して、素晴らしい説明を用意致しました。
そうです、宇宙は無限から始まった!無であり、有でもあり。
それが無限です。
宇宙が無限に広かった(大きかった)としても、私達が無限に小さかったとしたら?
逆に考えてもらっても結構です。
つまり、私が思うに無限大と無限小は=イコールです。
わたしたちがすむこの地球や他の惑星の存在事体が、
無限に小さきものであり、また無限に大きいものだとしたら。
無限は永遠に無限としてひろがり、それは無限の中に存在する
(存在しているように本人達は思っている)ものに宇宙として存在しているのだと思われている。
私達は、無限であり、宇宙である。
これが2つめの結論です。
さぁ、どんとこい。
納得、、、しませんでした?
私たちが、ふだん「物を物として思っていること」について。
花瓶を机の上に置く。
翌日、机に置いたはずの花瓶が机の真下に落ちて割れていたら
きっと誰かが、何かが花瓶を落としたに違いないと
その情景を思い浮かべるだろう。
でも、真っ暗闇でだれも見ていたわけではないのである。
ある日、転校生がやってきた。
どんな人だろうと遠くから見ている。
よくわからない。
話し掛けてみる、取っ組み合いをしてみる。
ふつうのクラスメイトになる。
私たちは、お互いに何かをしあわず、
自分のことを知られずに、相手のことだけを知るというのは不可能です。
普段だって、意識しているか、していないかはべつにしても
今、どんな人たちと一緒にいるのか、
それがその場での自分の言動に影響していることがあります。
誰にも見られてないときの私とはどんななのでしょう。
高等動物といわれるゆえんか、
人は、いつももう一人の自分が自分を意識しているのでわかりません。
実験的証拠
教室の真ん中に仕切りの壁をつけて部屋を前後に2分する。
仕切りの壁に2個所だけ穴をあける。
教室の前からめちゃくちゃに仕切りの壁に向けてボールを投げつける。
たまに、2つの穴のうちどちらかの穴からボールがすり抜けて後ろの壁に当たる。
さて、教室を真っ暗闇にして同じことをする。
たまに、ボールが穴をすり抜けるのは、仕切りの壁にあたる音がしないのでわかる。
けれども、どちらの穴を、どのタイミングですり抜けたのか
見えないし聞こえないのでわからない。
けれども、見えないだけで、きっと明かりがついていたときと
同じであるに違いない。
けれども、実験してみると「結果」が異なる!
授業中には、とても小さい電子や光の粒を使って実験しました。
部屋が明るいときには、二つの穴が近いせいか
二つの穴の中間点の後ろに最もよくボールが当たり
周辺に行くにしたがって徐々に当たらなくなる。
部屋を真っ暗闇にして実験すると
当たる場所とまったく当たらない場所が交互に繰り返し
壁にはボールのあった跡が縞模様になって残っている。
ボールは、あたかも、「波」のように広がっていって
両方の穴を波として同時に通過し、後ろの壁の地点で合流しますが
2つの穴からの距離の差だけ波がずれて干渉したのだと考えると説明ができます。
ボールが「波」?
ほんとは、これも方便です。誰も見てないのだから。
実のところ、手から離れ、後ろの壁に当たるまで
ボールがどうなっているかなんて誰も知り得ない。
未だかつて、ボールが、「ボールの姿」から「波の姿」に変わるところも
2つの穴を同時にすりぬけるところも見た人は一人もいません。
ただ一ついえること。
ボールは、真っ暗闇で光がボールにぶつかっていないときは
普段私たちが「ボール」として思っているようには飛んではいないはずです。
もしかしたら、一塊にですらなくなっていて
霧のようになっているのかもしれません。
この現象の発見から今年で75年。
真っ暗闇では、ボールはボールらしくあるのか、霧のようになっちゃっているのか、
そんなイメージは一切持つのを「あきらめる」ことにしよう。
それがわからなくても、
後ろの壁のどこに、どのくらいの確率であたるか、計算はできるのだから。
そういう態度をとることにしました。
(当時議論されていた場所にちなんでコペンハーゲン解釈と呼ばれます)
われわれは、かつてのニュートンが
重力の法則を発見したときにとった態度と同じ態度をとろうとしています。
ニュートン以前には、物体が下に落ちる理由。
引力というものが存在する理由が必要でした。
ニュートンは、引力の性質を示し、
なぜ引力があるかは知らないが、けれどもとにかく計算はできる。
それで十分ではないかと。
(けれども、ニュートンは、物体が落ちることの不思議さを人一倍感じていたはずです。
だからこそ、月が地球を回る理由とりんごが木から落ちる理由が同じであること。
引力が、「万有」であることに気づけたのでしょう。)
これは、ニュートン力学に取って代わり
量子力学と呼ばれる現代物理学の基本法則になりました。
手から離れたボールは、
ありとあらゆる動きを(二つの穴をぐるぐる回ったり、UFOのようにいったりきたり)
する可能性があるというイメージを持ちたいならそれでもいい。
実際にはそのうちの一つが
どんなにおかしな動きであろうとも
確実に起きている。(けれども、実際にそんな動きであったかは決して確認できない。)
考えられる動き一つ一つに波を割り当て
ありとあらゆる動きを全部、可能性として足しあわせたときに
はじめて結果の予測が正確になるのです。
(このありとあらゆる可能性の足し算という計算法は、ファインマンの経路積分法と呼ばれます)
どれくらい自然が予想外な振る舞いをしているのか。
その指針も計算されます。
(場所の曖昧さ)×(動作の曖昧さ)>プランク定数
(エネルギーの曖昧さ)×(時間の曖昧さ)>プランク定数
この指針を不確定性原理といいます。(プランク定数とはとっても小さいある不思議な数)
ある物体のエネルギーを瞬間的に知ろうとしても、それはできないということ。
短時間のうちには、その物体の量は限りなく小さくなっているかもしれないし
限りなく大きくなっているかもしれない。
ですから、机に置いた花瓶は、
真っ暗闇の中、瞬間的に机の中をすり抜け、
そのまま下におっこちたのです。きっと。
(これはトンネル効果と呼ばれる現象です。)
私たちが見ているのは、
非常に確率が高いが、確率が高いというだけで、自然にとってはごく一部の可能性しか
ふだん見る機会に恵まれないので、一部を全部だとしか思えなくなってしまっているのです。
宇宙誕生の量子論
宇宙の誕生を考えるときは、「空間」や「時間」もモノのように扱い
我々の見知らぬ空間や時間の様子を考えた方がいいように思われます。
これを量子重力理論といいますが、誰も矛盾なく完成させることができていません。
以前 、S.W.ホーキングは、「時間」というものと量子力学というものは
もしかしたら出所は同じなのではないかという趣旨のことを言っていました。
時間というものと、モノの存在を表すエネルギーと時間の不確定性との間に
何か鍵が隠されているのかも。
時間と空間の見知らぬ性質をうまく利用して宇宙誕生の話を作れないか。
または、
この世には見知らぬ姿が存在するということと時間の性質をうまく絡めて
誕生の前がない宇宙誕生の話を作れないか。
各自挑戦してください。
追伸 これは役に立つかどうか知りません。
私たちは、いま、中から宇宙を「見る」ことができます。
でも、決して宇宙全体を見る人はいません。
宇宙全体は一生誰にも見られることがありません。
なぜなら、見ようとしている私たちのこの頭の中だってその宇宙の一部だからです。
あなたの頭を見ようとする人がいたら、こんどはその人の頭を見る人がいません。
そもそも、見ようとするのはなんですか。脳ですか。見ているのは脳細胞なのですか。
宇宙誕生と時間と空間について
T.H.
宇宙は、誰かが生み出したものでも、何かが誕生の瞬間を
みていたわけでもない。
人は死んだら、その記憶や思いではどうなってしまうのか。
ということを考えるのと同じで、
今あるものを見てるうちは、前の状態なんてわかりっこないのだ。
やっぱり、宇宙は時間とともにうまれてきて、
時間もまた宇宙とともに生まれてきたと思う。
時間のない世界なんて想像つかないかもしれないけど、
始まる前はその世界だってなかったのだ。
時間や空間というものは、わたしたちが俗にいう
「もの」として扱うと、やっぱりなんか変だ。
それは時間や空間が「もの」であるというなら、
誕生する前の状態が誰もわからないのはおかしいからだ。
「もの」でないとすれば。
たしかに時間も空間も「存在」するが、
「もの」として私たちが認識するのはちょいと難しい。
それは触れたり、確かめたりすることができないからだ。
たしかにそこに時間はある。今も昔も。
私たちがまだ小さい光の粒だった時代から、
宇宙という空間は存在して、時間は流れていた。
時間の流れに沿って、私達は進化した。
でも、そこに確かにあるといっても、確かめようがない。
例えば、
「今ここに空間があることと、時間が流れていることを証明してください。」
と言われても、誰にも答えることはできない。
それが証明できたら、時間の流れと「もの」と空間の関係がわかって、
宇宙誕生の際のことも証明できると思う。
でも、それがわからないから、
自分なりの誕生の前がない宇宙の話をしようと思う。
さっきいったように「時間」と「空間」は私たちが俗にいう
「もの」とはちょっと違うものだと思う。
誰も客観的に時間と空間の存在をたしかめることができないからだ。
つまり、見る役がいないのである。
わたしが思うに「誕生」は「もの」だけの世界の話だ。
宇宙という空間と時間の流れの中で誕生と死が繰り返される。
そんな中で暮らしているなんてちょっとむなしいけど。
空間は死なないし、時間も死なない。
逆説的に言えば、誕生はしないのである。
じゃぁなんでさっき宇宙と一緒にできたといったのかというと、
それまでは「無」だったところに、
「もの」としての「エネルギー」をもたないつまり
私たちが「有」だと認識する為の「形」や「エネルギー」
をもたない何か、、があってもおかしくない。
自分の存在を肯定するために時間は流れているし、
私たちが存在するために空間は存在している。
宇宙という空間の中の時間の流れの中で
自分らは生きているので、、、、
脳も細胞も全部宇宙自身なのだから、宇宙の記憶にふれることはできない。
それは、私達が生まれてから辿ってきた記憶を
じゃぁ、◯◯年×月△日の記憶をとりだしてください。といわれて、
できないのと同じようなものだと思う。
このままじゃ結論にならないかもしれないけど、
やっぱり宇宙や空間や時間は「もの」じゃない。
それに、それを「もの」として認識しても、
不確定性理論がある限りは、本当の事なんてわかりっこない。
うまくいえないけど、時間や空間が「もの」でないならエネルギーをもたないはず。
だから、無だった所に「もの」としてのエネルギーを持たない、、、
「無」があってもおかしくないというわけです。
わたしはこのあいだのレポートで、宇宙は無限から生まれたといいました。
今回レポートを書いて、生まれたのではないといいました。
宇宙は無限だと思います。
だからそこに時間の流れも空間も、無限に存在します。
それは「もの」として確かめることはできません。
でも確かに「ある」から、「無」ではないと思うだけ。
無限の中で誕生と死がくりかえされる。
ただそれだけです。
なんか、結局宇宙の誕生を説明してない、、、。
誕生してないことになってる、、、、。
でも、これがわたしなりの結論です。
宇宙の誕生
Y.M.
「誰も見ていない」所では物質が思わぬ行動をする。今私達がこの宇宙に存在してるということだけで互いに力を及ぼしあうので「誰も見ていない」という状況があるのが不可能に近い。むしろ、誰も見ていないのだから自分も見ることができなく、永遠にわからない。見れたとしても「結果」で「過程」ではない。そして今自分達がいるこの空間で起こっていることは「誰か見ている」上での行動、または現象だ。その私達が見ている中で、空間は右も左も上も下もあるという姿をし、時間は未来にしか進まないという姿をしている。では宇宙誕生のときに時間と空間ができたという事だがその前、時間と空間は一体どこにあったのか、またはどのようにして出来たのかという話になる。私が注目したのは、「誰も見ていない」時の時間と空間の姿である。 さっきも言ったように、私たちの今存在し互いに力を及ぼしあっているこの世界では時間は未来にしか進まず、空間は右左上下があるという姿をしている。でも、何もなくて互いに力を及ぼしあわない宇宙誕生前の時間空間の姿は、勝手に想像してみたが、時間は未来に進むだけじゃなく、方向性がめちゃくちゃで、1分時間が進んだと思えば100年前に時間が戻っていたり、今度は3億年先に時間が進んだりなどなどで、このように時間はめまぐるしく動いてるのだが、すごい早さで戻ったり先に進んだりしているため結局はプラマイ0で時間は止まっていることになる。つまり確実に存在していて活動しているのだが止まっているという変な姿をしている。そして空間は1次元2次元3次元などがめちゃくちゃに混ざって動いている。
私たちが存在するにはこのように時間空間がめちゃくちゃではだめだ。裏を返すと私たちが存在しているからこそ時間空間が今現在の様な姿をしているのだ。つまりだれも見ていない、だれも存在しなくなったとたん時間空間は今現在の形をする必要がなくなるので、さっきのようなかたちになるのだ。
宇宙誕生前、だれもいなかったから時間空間はめちゃくちゃなかたちにあった。しかしなんらかの原因で1点だけに光がさした。そうするとそこには力が及ぼされ、時間空間が今と同じような姿を見せ始めたのだ。そしてそこからビックバンが起こった。
以上のような話を作ってみた。
第1話
ある日突然、自分の大切な人が事故にあった。
幸い体に大きな怪我はなかったが、まったく意識が戻らない。
毎日話しかけたり、手足をマッサージしてあげたり
今にも目を覚まして、
日曜日のちょっと朝寝坊したときのように
いまにも眠そうに起き出してくるのではないか。
いつもそう思えていた。
日が経つにつれ、人工呼吸器や
たくさんのチューブがつながれていった。
そしてとうとう、
「まもなく脳の活動が止まり脳死状態になります。」
延命処置をすれば、脳が活動しなくてもまだ生きられるという。
確かにいっぱいの装置が付けられてはいるが、手は温かい。
素肌の感触は生き生きとしている。
ただ目を覚まさないというだけで寝ているのと何も変わりない。
脳死判定を行い、臓器提供をすれば、・・・????
結局、臓器提供は断った。
第2話
大学を卒業して、念願の仕事に就くことが出来た。
仕事も軌道に乗り、自分のアイデアを活かせるようになってきた。
ある日、ベッドから立とうとしたら足がふらついて倒れてしまった。
そんなことが続いた。
いつしかペンもうまく握れなくなってきていた。
医者にかかったら、精密診断を受けるはめとなった。
会社を休んで病院に行くと、色々検査室を回されているうち
すっかり滅入ってしまっていた。
病名は、ALS「筋萎縮性側索硬化症」だった。
(運動神経が冒されて筋肉が萎縮していく進行性の神経難病。
病気が進むにしたがって、手や足をはじめ体の自由がきかなくなり、
次第に話すことも食べることも、呼吸することさえも困難になってきますが、
感覚、自律神経と頭脳は何ら冒されることがありません。)
幸い頭だけで勝負できる仕事のため
ちょっと不便だけれど、乗り越えるのも生きがい。
最近では人工呼吸器や目の動きから音声を合成する装置まで付け
筋肉の衰えを補っている。
が、もう限界らしい。
1 脳死された方の脳の代わりにあなたの脳を移植します。
2 あなたの体から元気な脳だけを取り出して、脳の培養装置にいれます。
見た目は機械ロボットですが、CCDでつくった人工の目も
今まで使われてきた音声合成装置も今度は脳直結で作動します。
3 あなたの元気な脳が完全に停止されるまで、生命維持装置を使いましょう。
の3つだという。
いままだって、歩けなくなれば足の変わりに車椅子を。
声が出せなくなったので、音声合成装置を。
どっか具合が悪くなると、医療器具で補って元気になった。
そうやって病気と戦ってきたともいえる。
医療器具の発達はありがたい。
病気が治ったわけではないが、気分は晴れる。
それはとても大切なことだと悟った。
以上フィクションの後半部分は現時点では無理です。
第3話
今朝、目が覚めたら、自分がとなりに居た。
いや、正確に言うと自分が寝ていたところにもう一人の自分が寝ていて
自分はそのとなりに寝ていたらしい。
新聞を見ると、昨日?寝てからもう一週間が経っていることになる。
どうやら、私は生まれる前にクローン化されていたようだ。
クローンだから私たち?は、全くの同じ人物だ。
記憶も肉付きも、細かな修正はこの空白の一週間に行われたらしい。
まだ、もう一人の私はとなりで寝ている。
もうじきもう一人の私も目を覚まし、私と同じように思うに違いない。
自分のとなりに自分が寝ていた!?と。
寝てからもう一週間も経っていると。
自分はクローン化されていたらしいと。
そして、一番重要なこと。
このもう一人の私とこれからどう付き合っていこうかと。
いったい私が本物の私なのか?
それとももう一人が本物なのか?
もし私がクローンなら、もう一人の本物にあたる私を
自分と区別しているこの「私」は誰なんだろう?
私ももう一人の私も寝る前までの記憶は全く同じで
現時点では体の感覚も全く一緒だ。
きっと思考のパターンまでそっくりだ。
どう付き合おう?
第4話
いつの間にか世間でいう定年の年をとっくに過ぎていた。
恵まれたことに、一つのことにずっと専念してここまでこられた。
でも、一度も満足していない。
昔は何とかできると思っていたが、青年老いやすく学なりがたし。
段々進歩の足もゆっくりしてきた。
先のことを考えると気持ちばかり焦る。
そんなある日弟子ができた。
打てば響くで、不思議なくらい年の差を感じないやつ。
あっという間に弟子は私に追いついた。
まだまだ死ねない、
やり残したことがたくさんある。
そう頑張りつづけてきたが、これで
やっとほっとして静かに眠ることができた。
いつの間にか動作、仕草、口癖までそっくりになってきたりすることがあります。
こんな動作、仕草、口癖に止まらず、師匠と弟子のように
その意気込みや生き様まで移ってきたりすることもあり、
弟子の姿に師匠を見る場合があります。
「私」が死んだら、
私の中のこの「私」を意識している「私」はもうないかもしれないが、
この「私」を私らしくしてきた私の中の何かは
弟子の中にある。きっとそれはまた孫弟子へと。
「私」と主張しない「私」はずっと生きている。
きっと先祖の時代から、人類の誕生から、生命の誕生から・・・

第5話
祖母は13年前に脳梗塞で一度倒れた。
この一年はもう寝たきりになっていた。
苦労して生きてきたせいか、倒れる前は、まるで男のような人で
ごめんなさいやありがとうという言葉を口にするのは一度も見たことがなかった。
それが、人が変わったように、よく笑顔でお礼をいう。
何でも独りでやってきた人だったので
一人ではなにもできなくなってさぞもどかしいのだろう、よく笑っていた。
四十九日の法事が過ぎ、日記が出てきた。
倒れて間もないころのだ。
入院中は食事のメニューばかり記してある。
歯が抜けて、自由においしく食べられなくなった日。
気持ちは元気でも、体のほうが勝手に衰えていく。
老いるとはそういうことか。
とある。
食べることが大好きだった祖母らしい納得の仕方だと思った。
危篤の連絡で駆けつけたとき
心臓は元気だった。ただ、呼吸が動いたり止まったり。
しばらく止まると苦しそうにまた復活する。
一生懸命声をかけてあげるとほっとした表情になる。
けれども、こんどは安心したのか、そのまままた呼吸が止まってしまう。
いったん帰宅したが、それがお別れだった。
呼吸が明滅していたとき、苦しそうだけれど確かに生きている祖母と
ほっとした安堵の表情で静かに眠っている祖母がいた。
ずいぶん色濃く生きて、波瀾万丈だったけど、
最後には、安堵の表情を浮かべ、きっと人生をまっとうしたのでしょう。
なぜ人は、はじめから無色透明には生きられないのでしょう。
人は、枯れてよくなってきた、と評されることがあります。
Re: 生
Aさん
人間の「生」から、存在というものを考えてみる。
「生きている」とはなにか?と考えてみたときに、うまく言葉ではいえないけれども
「存在」している、と認めてもらうことだと思った。
いろいろな例としてあがった話からいくと
生物学上「死んでいる」と思われても、別の人の中に存在が残っていたのなら
その人にとって「生きている」と同等なことなのだと思う。
自分で自分の存在を認めることもまたそうだ。
自分の存在価値を否定してしまったら、「生きている」と言い張るのはひどく難しい。
病気になってしまい、不便だがたくさんの医療機器をつければ生きられる。
このような時、私はそれでも「生きよう」と思うだろうか…?
この時点で「自分はもうだめだ」なんて思ってしまったら
その人は意識的には死んでしまうのだろう。
自分を否定したままで、他人に一体自分の何を認めてもらおうというのか?
つまり「生きている」とか「生きる」ってゆうことは「認識」と同等な気がする。
自分がいざ「死んでしまう」と実感でもしたとき、
そのときに初めて今まで自分が認識してもらい、生きていた事をありがたく思うのだと思う。
今このように、ごくあたりまえに日常生活を過ごしているけれども
よくよく考えればすごく不思議な事のように感じる。
あたりまえのようにいるけれども、ここにいることができるのは、自覚はないが
他人に「存在」を認めてもらっているからだ。
「死んでしまうこと」「存在を認めてもらえないこと」は、すごく怖いことだと感じた。
私が死んだ後も誰かに、誰か一人でもいいから、
「存在していた」ことを覚えてもらっていたら、私はすごく幸せだ。
本当の意味での「死んだ」ということ、つまり完全に消えてしまうことはなくなるからである。
この課題について考えてみて、「生きる」とゆうことは難しいことだと感じた。
とりあえず、誰かに存在価値を認めてもらいたいと思った。
Re: 生
Y.M.
「生きる」という事は「死ぬ」という事があるからこそ存在するもので、その逆のこともいえる。
私達は普段、今自分は生きているんだと心の底から実感出来ることは少ないだろう。今していることで精一杯だし、楽しい時も楽しいと心から実感するだけでいっぱいである。生きることの正反対で、または生きることと紙一重のところにある「死ぬ」ということを実感した時こそ、生きていることを実感し、またいつもの10倍にも100倍にも「生きたい」という思いを強く持つのだと思う。
「生きる」「死ぬ」はどちらも私たちの「最初・原点・始まり」だ。生きたいとか死ぬかもしれないと心から思った時、私たちは原点に戻る。そして原点に戻ると「自分」を見つめ直すのだ。身近な人がそういう状況になっても同じだ。
この話に共通して感じたことは、5つの話はすべてこの原点が出てくる。
1話2話では、「生きている」ということは、呼吸をしていればいいのか、体温があればいいのか、脳が生きていればいいのかなど、単に「生きている」と言っても考え方によっては沢山の定義がでてきてしまう。そこでじゃあ本当の意味で生きているって何だろ。
3話では原点そのものの自分にクローンとして出会ってしまう。そこで自分の存在とは何かと見つめ直す。
4話では「死ぬ」という原点を見つめたとき、まだ死にたくないと思う。するとそこに自分の意志、他の形で自分の存在を残してくれる人が見つかった。それこそ原点から受け継がれていくものなのだと主人公は原点から受け継がれていくものについて発見する。
最後の5話は、その原点のことについてぴったりいく話だと思う。私たちは生まれてから、色々なことを経験してそれぞれの色に染まっていく。その中にはいい部分もあれば悪い部分もある。例えいい色ばかりだとしても、結局は外から影響されて染まった色。本来の何も影響されていない「自分本来の色」に戻る事は原点に戻ること。この話でのおばあちゃんは死を目前にして、時代に染まってきた色はだんだん薄れてきて、本来のおばあちゃんそのもの色を見せ始めたのだ。
すべての話にでてきた原点。わざわざに原点に戻らないと人間は自分の生きていること気付かず、生きれば生きるほどにどんどん色んな色に染まっていく。ならば人間は、最初から原点にずっといて、無色透明に生きるようにつくられればいいとなったら、それはそれで違う。つっぱしって原点にもどる、色々な色に染まっておいて原点にもどる。それが良いのだと思う。最初から最後まで無色透明で原点にいて生きるほど意味のないものはないと思う。これだったら成長も何もないだろう。何事にも対応できず、きっとすぐに絶滅する生物になっているだろう。
DSM-4ケースブックから
「反社会性人格障害」の2例
主体性と客観性
Y.M.
こういう人と出会ってしまったら、なによりも常識が通用しないのが一番恐ろしいと思う。つまりそれは、普段私たちは、互いにもののとらえ方は多少違ったにしろ、「常識」を通して会話したり意見を言い合ったりまたは喧嘩をしたりする。だから互いに意見が違うにしろ、一応会話のつじつまが合うわけだ。常識とは、皆が集団の中で共存していくために1人1人が持つべきもので、小さい頃から教育されたものもあれば、なぜか教えられなくても人間として暗黙の了解でもともと感覚的にもっているものもある。そして「常識」とは1人だと存在しない。他の人がいるから存在するものなのだ。
他人と自分が接するとき、題名のような主体性と客観性というものがいやでも成り立つ。自分の思っていることは自分にしかわからないし、相手の思っていることも自分にはわからないので予測をするからである。このような関係がうまく成立するのは、この社会にある常識的なものを1人1人がもっているからだ。しかしそれとちょっと異なるプリントに出てきたような人と出会ったとき、この社会にうまく溶け込んでいる正常な(?)私達との間には主体性と客観性のバランスを作ることが出来ない。その人には主体性はある、私たちにも主体性はある。しかしその人には客観性というものがない、私たちにはある。その人といざ会話をしてみる。私たちは主体性をもとに相手の客観的な部分も考慮して話をすすめる。それはこの社会において普通のことだ。その人も自分の主体性をもとに話をする、しかし客観性をもっていないため、こっちのことを考えず、話がつじつまが合わなくなり会話というものができない。つまり主体性しかもっていないのは、この世に自分1人しかいないのに等しい。この世にたった1人だったら主体性をもつだけでいい。他の人がいないから客観性はもつ必要がないのだ。でもこの社会という集団に存在する以上、客観性を持たないと相手とのコミュニケ−ションがとれないということだ。それはとても危険なことで、なんの理由もなく、またつじつまもなく自分だけの世界のル−ルで接してくる。彼らの世界に私たちはいない。
もし私たちが彼らに出会ったら、あっちがこちらに興味を示してしまうようなふるまいをしないほうが良いと思う。彼らが、彼らの世界に私たちがいると認識した時、前にいったように、私たちの社会の常識は通用しない。それは、社会の常識のよって身も心も守られている私たちにとっては、その常識がないというのは、とても危険なことになるからだ。
まとめ・主体と客観
我々の身のまわりには机、テレビ、家・・・などの人工物があります。
これらはみな目的を持ってつくられたという特徴があります。
逆にいうと、人は目的がないものは作れないのかもしれません。
おもちゃロボット産業では、癒し系といわれる犬型ロボットなどが
作られていますが、目的をプログラムにして組み込んでいるだけですから
最初はそのプログラムの複雑さが見切れない分、
感情があるかのように見えますが
終いには、完全にコントロール下におくことができてしまいます。
毎日同じ会話をしていても飽きない友人のような存在のロボットは
どうやったら作れるのでしょう。
科学的といわれるいわゆる宇宙論のシナリオは
真空の、しかし高エネルギーの無という状態から始まり(ヴィレンキン流)
時空の真空の相転移がおき、時空が生まれ
物質の相転移が起きるまでインフレーションという急膨張が続き
これがビックバンとしての物質の相転移が起きることにより収まり
現在のような緩やかな膨張宇宙なった。
現実的にできるできないは別として
我々が作った宇宙論と呼ばれるものは
我々が宇宙を実際に作ることができるような処方箋的な内容である
と極論することもできる。
この原因と結果(量子論では多少緩やかになるにはしても)
という、人が知らず知らず使っている思考パターン、
説明という時に現れる言葉の使い方、意思表示は、
人同士の会話では、議論という特殊な状況でしか現れてこない希な形態です。
昨日の帰り道、なにげなく見上げた月を、また今日も見上げていた。
昨日話したことを、今日もまた同じ友人と話している。
この二つはどこか同じような気がします。
この宇宙の存在である我々は、いわゆる説明を意識せず
何気なく、意味があるのか無いのか、少なくとも明確な目的を意識しないでも
いろいろなことに接している時間をもっています。
宇宙論というものを作ってきた過程では
知らず知らずに、我々が行っている行動のうちのたった一部の習性の
色眼鏡を通して宇宙像を作ってきました。
何かを言葉にするということは大変なことです。
すぐに、説明的な展開になり、本意を失ってしまいます。
特別意味もなく今日も空を見上げてしまった自分を通すことなどを利用して
うまく、この、自分自身を含めた、自分が接しているこの世界全体を余すところなく
表現してください。
Re: 1学期まとめ・主体と客観
Aさん
宇宙の一部である人間(自分)が宇宙という全体を把握しようとすることについて
考えるという客観と、体験し、生きてるという主体とそんな存在の人間という宇宙の一部
自分があって今までいろんなことをしてきた、
それをただの人間としての経験とかじゃなくってそこから宇宙を考えてみる
自分自身を含め、曖昧な存在の人間をみて、宇宙を感じろ!ということなんでしょうか?
曖昧な人間の存在ってとこから考えてみると、人間それぞれ考え方が違っていて
まぁそれだから人とお話するのが楽しかったり疲れたりするわけで
他人は他人、その人自身の体験をその人の感覚で人生過ごしているわけだから
他の人と同じ世界をみることはまず無理だと思う。
物理的には「同じ世界」にすんでいるけど
意識的には「同じ世界」にすんでいることはありえない。
たとえば一つの物事に対して自分はAという答えを出したとする
でも他の人からみればそれはすっごく納得のいかないことなのかもしれない。
つまり、とらえかたも「別の世界」にすんでいる人だから違ってくるものである。
それは宇宙に対しても同じことがいえるもので、
個人個人の捉え方が違うものだから、同じ宇宙ってゆうものも、本当の宇宙ってゆうものも
存在はあり得ないもので、いってしまえば心にある、みたいなものだと思う。
だから、前の課題にも書いたように
「宇宙を知ろう!」とする行動事態がかなり無謀である。ということ。
宇宙全体を知るには、人間全員のいろいろな意識、考えを納得することなのか。
私が今まで経験してきた中で宇宙を説明しろっていわれてもそれはひどく難しい。
言葉にできない、しようがない、もとい検討もつかない。
ただなんとなくわかったことは、私たちの意識の中に
その人なりの意識とか自覚とか考え方によってできたその人にしかわからない
大きな世界、宇宙というものがあるのかなー?ってかんじ。
そんなことをふと思ってみました。
客観と主体について
第三者が客観。
自分が主体。私はこのように思っています。
客観と主体から見てみる宇宙。
人間の主体は「自分自身」
宇宙から見た主体も「自分自身」
ってことは、宇宙から見た私たちは「宇宙自身」になるのかな?
宇宙を客観的に見て「月がある」「惑星がある」というのは簡単なことだ。
でも主体的に見た宇宙ってゆうものは、つまり自分自身を知るってゆうことになるから、
なんだかひどく難しい。
特別意識なく空を見上げてしまった。
そんな行動をとる人間だからこそおもしろいし、わからない。
それがわかっちゃったらつまらないと思いません?
それは宇宙にも言えることで、わからないし、おもしろいって感じなんだと思う。
感情を持っていて、毎日はなしていてもあきない、友人のような存在のものは
人間の手によってつくりだされることは不可能である
それ自信に意識、だとか考えがちゃんとあるし、上にも書いたように「わからない」から。
これと同じように、宇宙をあたかも自分たちの手で作り上げるというような
そんな仮定を持って、宇宙を説明することは・・・やっぱり無謀だと思う。
この課題の「答え」にはなっていないかもしれないけど
ただ一つわかったことは、「宇宙って謎なものだなぁ。」ってこと。
それは自分自身に感じたことなのかもしれません。
主体と客観2
Y.M.
宇宙の一部である私たちは何の目的でつくられたか。そんなのに意味はないだろう。宇宙がつくられたこと自体に特にいみがないような気がするからだ。私たちがものを作るときには、それに何かしらの目的があるため、それを目にしたとき、これはこういうものだと漠然とでもかんじていると思う。しかしたまたま月や星を目にした時、これはこういうものだなんて特に考えたりしないと思う。でもついパッと見てしまったり、特に訳もなく今日は星がでてるかなーと見てみたりする。小さい頃から私達は、星空、つまり宇宙にたいして、別に何を知りたいとかではなくただ漠然と興味を示してきた。ただ漠然と興味を示すということは、目的を持って見ている訳ではない。つまり大ざっぱに言ってしまうと、私達にとって宇宙は特に目的があるものではないのかもしれない。確かに太陽は私達に必要不可欠だ。でも普段太陽を見て、太陽が私達にしてくれてることを意識したりすることは、よっぽどのことがない限りないだろう。友達と話す時、特に何を話すというわけでもないのに、なぜか会話が続いている。なぜ、ロボットにこういうことが出来ず、なぜ私達にできるのか。それは、私達が意識をせずに月や星を見ることができることや、会話の内容を意識もせずに淡々と会話続けられるという、意識、目的がなくても、別におかしいことをしていない、そこに存在していても不自然でないというものを持っているからだ。
あまりしゃべったことのない友達よりは、いつも一緒にいる友達のはうが意識せず一緒にいられる。もっと分かりやすくいえば、家族がそれに一番近いだろう。自分にとって当たり前の存在、自分に一番必要なもの(例えば普段意識していないが空気など)は意識なく把握している。つまり宇宙もそうなのだ。一見遠い存在かと思いきや、小さい頃から意識なく把握している。それは、宇宙の一部にしっかりと私達が存在していて、私達を包む一番近い存在だからだと思う。
私達は漠然と宇宙をいつも意識なくとらえている。それは宇宙からしても同じことだろう。 それを思うと、別に人間は何のためにこの宇宙に存在しているのか、なんのために生きているのかなんてそんなに深く考えなくていいような気がする。宇宙のなかに存在する私達は、その宇宙を自然にとらえている。月を何となしに見てしまうことそのものが、私達が宇宙を意識の範囲をこえてとらえている、そして存在している証なんだと思う。
主体と客観パート2
T.H.
<今回の壮大なるテーマ>
宇宙の一部である人間(自分)が宇宙という全体を把握しようとすることについて
考えるという客観と、体験し、生きているという主体とそんな存在の人間という宇宙の一部について考える
わたしは宇宙のいちぶである。これはまぎれもない事実なわけだ。
たとえどのようにつくられたか知らなくても、人間はここからやってきた。
宇宙は人間が作ったわけではない。
もとい、作る作らないといってること自体間違っているのかもしれない。
わたしが生まれてから見たもの・感じたもの。
手にとることができるもの・思い出すことができるもの。
これらはすべてが人が作り出したものによるものだ。
客観的なもの。
生まれてから客観的なことしか体験していない私たちにとって、
「生きる」ことと「宇宙」を主体的に考えるのはとてもむずかしいことだ。
でも、きっとこれを話せれば課題をこなしたことになると思うので、一応書いておこうと思う。
人は目的を持って生まれてこない。
数え切れないほどたくさんのものを生み出した人間でさえも、
人間を作為的に作り出すことは絶対にできない。
人間は客観的なことをいくつも体験して死んでいく。
でも、生きていること。体験していることを主体的にとらえて人生を全うする人は
そうそういらっしゃらない。
まぁ、何か悟ったり?妄想が膨らんだり?そんな人だったら勝手に納得するかもしれないけど。
私たちには「自我」がある。
だから、宇宙はどうやってできたのか、考えたくなる。
これは「自分」もとい「人間」視点で宇宙を眺めているが故。
つまりー、宇宙を主体的に論じるには宇宙視点でながめればよいのです。
といってもそれはものすごくむずかしいこと。
わたしは宇宙が何なのかわからないし、わかろうとしてもわからないのだ。
だって、自分の体験したこととかそういうのを含めて、さぁ、宇宙から見たらどうだろう!?
っていってもそれは結局客観的な目で見ていることになってしまうと思う。
宇宙を論じるのはとてもむずかしい。宇宙論はだからいつもひとつではない。
なぜ難しいのか。
それは存在している目的を上手く言葉で言い表すことが出来ないからだ。
たとえば人間の作ったもの。
テレビや掃除機、えんぴつ、飛行機。
世の中にあるすべてのものは目的があって作られた。
でも、宇宙は何の目的で作られたのか誰にもわからない。
それはまた人間にもいえることだ。
たぶん、広い宇宙から見たら、人間は宇宙の一部だ。
だから目的があって生きているわけじゃない。
そういうふうに錯覚しているだけだ。
だから、目的を持たないものの説明をしろというのはむずかしいのだ。
今ある宇宙論は、宇宙の中にいる自分たちからみた外の世界のことをいっているにすぎない。
全部を説明していない。
ただ外の世界のことを客観的にそとからの視点でながめているのだ。
自分たちもその中から生まれてきたのに。
きっと、主体的に、つまり自分たちも含めて宇宙全体を眺めて
論じることが出来ればそれは立派な宇宙論なんだと思う。
どうやってできたかわからなくても、主体的な宇宙論に正解も不正解もないんだから。
へりくつをいってるとおもわれたらそこまでな話。
私たちは広い宇宙の中で宇宙を構成する一部として宇宙の歴史にとってみれば
一瞬の時を一喜一憂しながら過ごす。
でも、そのいっしゅんがとぎれたらどうだろう?
逆説的にいえば、宇宙も私たちを必要としているということだ。
何気なく月を見たり、天体観測したり。
それはそこにあって当然だからだ。
私たちも宇宙がある「目的」は考えず、
そこにあるものと「断定」して生きているのだ。
友達と同じ事を話してしまうのは、そこに「日常」が存在しているからだと思う。
これは私の勝手な解釈。
人間は宇宙の一部、宇宙は人間の一部。
すべての当たり前の存在が偶然そろって、そこにあたりまえが存在して宇宙が存在する。
人間が生きるのに目的は必要ですか?
生きていくこと自体が目的でもいいと思うのです。
宇宙が存在するのに理由はないように。
もとはひとつだったものを、客観的にとらえるのは、ありがちなことです。
もともと1本の人参を2つにわったら、2つと認識する。
片方の人参にとってみたらもう片方の人参は別の人参なのだ。
もとは一つの人参なのです。
宇宙を表す、構成するのものの数が多いだけで、
人は宇宙をまるでとらえどころのないもののように客観的に眺めがちです。
月を見上げれば月は自分を見下ろす。
遠くかけ離れているようで、とても近い問題なような気がします。
これが、私の宇宙論。
まとめ・主体と客観
M.M.
私たちの周りには、何の意味も持たず、ただ「存在しているもの」というのがあります。
ちょっと遠いかもしれませんが、星。星あることによって、なにがどうなるというのでしょうか。生物のいる地球も、生物のいない火星や金星も別になくったっていいのではないのでしょうか。そう思うと、この世に存在するすべてのモノが存在の必要性を失います。
しかし、私たち生物は、必要なかったかもしれないけど存在してしまいました。存在してしまったから、存在してしまったことによって、生きる目的を持つことになったのです。
日々の日常において、私たちはむだなことをたくさんしています。「生きること」が「無駄なこと」だとしたら、「存在すること」事態が「無駄なこと」だとしたら、生物の最大の目的である、「子孫を残すこと」も意味のない行為となってしまいます。
では、なぜ宇宙は生まれ、私たちも存在しなければならないのでしょうか?
私は、確かに「意味のない、存在する価値のないモノ」なのかもしれません。でも、「私」にとって「私」は、意味のある必要な存在です。「私」が存在しなければ、「私」は存在しません。だから、少なくとも私にとって、私は必要なモノです。
外からみたら、客観的に見たら、私は必要のない存在で、意味のないモノかもしれません。それは宇宙にもいえることだと思います。客観的に見たら、「宇宙ができ、生物が生まれたからなんなんだ」という感じかもしれませんが、主観的に見ると、宇宙は「私」が存在するために必要な、意味のあるモノだし、「私」だって存在する意味があります。私の遺伝子を残すために、子孫だって必要だし、生きていくためには、ほかの生き物や、空気、それに仲間だって必要です。
この世に存在するモノは皆、「存在する意味のないモノ」であり、それと同時に「かけがいのないモノ」なのではないでしょうか
第5章 自然の本性とは

1学期から
宇宙が星や星の集まった銀河からなるという構造の話や
そういう風に理科の時間で学んできたような見方で
人が自然を捉えよう・接しようとする面があることを一つ学びました。
また、自分自身も人間という生きものなので
それを通して、生命とは・・・と考えてみました。
2学期に入り
自分の生まれた瞬間の空の様子から
自分のもって生まれた種みたいなものを占ってみました。
(西洋占星術)
そろそろ本題です。
この授業の最終課題は「自然の本性とは」です。
Re: 最終課題
M.M.
私たちは、「自然」のすべてを見ることはできません。それは私たちがすでに自然の一部だからです。
私たちが生き、死んでいくのは、自然の節理にのっとったものです。人間でとして生きていけるのは、「生まれて生きていく」という自然の流れがあるからであり、この「自然の流れ」がなければ、私たちは生を享けていないはずです。つまり、どんなに人間が自然環境を破壊し、地球を滅ぼそうとしても、「自然」は限りなく広く、地球なんてその中のほんのわずかなもので、人間なんていうものは、その地球から見てもちっぽけなもので、その人間がたとえ地球を滅ぼしたとしても、結局人間は「生と死」という自然から逃れられず、自然の中で自然に逆らうことが出来ないで、死んでいくということなのです。
宇宙という空間の中で「生命」というものを考えたとき、「生命」の定義が出来なくなってしまうような気がします。「宇宙」というものは生きているのでしょうか?人間はよく、「地球は生きている」といい、また「星は死んでいく」と言います。でも、その「生きている」や「死んでいる」は、人間や動植物が「生きている」というのとおなじこと同じ意味なのでしょうか?
私は違うと思います。星たちは、地上で暮らしている私たちや動植物とはちがった次元で「生きている」のだと考えます。けっして「イノチ」がないとは思いません。だって、もし星に「イノチ」や「生きる力」がないとすると、それは宇宙全体に「生きる力」がないことになり、私たちは、「生きていない」ところで「生きている」、わけのわからないモノとなってしまいます。
「宇宙」は生きています。生命力に満ち溢れていると思います。人間は宇宙の「生きる力」に憧れ、また、自分たちとは違った「イノチ」に魅せられて宇宙について考えたり、星占いで、宇宙の力を少しでも得ようとしてきたのだと思います。
私たちが何をしようと、何を考えようと、それは、自然の中の本当に小さい、気づかれもしないようなことです。地球が太陽にのみこまれたって、どういってことはありません。というよりも、宇宙のどこでなにが起こっても、宇宙全体からみればちっぽけなものです。そしてそのちっぽけなものが集まって、大きな自然の流れを作っています。
自然は、何よりも強いものです。というより、自然に敵はいません。自然以外のものはこの世にありません。自然が生んだのではない「イノチ」はありません。自然の中以外のところで死んでいくモノも有りません。それは、「自然」=「イノチ」だからです。私たちは「イノチ」の中で「命」を育んでいるのです。
そう考えると、自然の本当の姿は、「イノチの塊であり、この世のすべて」なのだという結論になります。星たちは、寿命がくると爆発し、宇宙の「イノチ」の一部分となり、また新たな星となります。同じように、私たちは死んだあと、土に埋められ、自然の循環の一部になっていきます。「命」あるものは、「命」を無くしてもなお、「イノチ」の中にいて、「自然」の中でイキテイケルのだと思います。
Re: 最終課題
Y.M.
自然とは、私たちの存在をより強調しているもの。
一番簡潔にいうとしたら、私たちは宇宙の一部である。しかし、いくら宇宙の一部とはいえ、そのまま宇宙にほっぽりだされたら、私たちは真空に身をさらし、粉々になってしまう。粉々になり宇宙に広がっていくという意味では、たしかに宇宙の一部になったといえる。もしかすると、宇宙の一部であるということは、そういうことかもしれない。しかし[一部」になることと「存在」することは、「無」でないという点に関しては同じだが、本質はまったく違うもののように思われる。
なぜ私たちは、宇宙の「一部」でありながら、粉々にならずに「存在」しているのか。別に難しく考えず、ただ単に「地球にいるから」である。地球も宇宙の一部でありながら、そのまま宇宙に溶け込んでしまうのではなく、ちゃんと存在している。そしてその地球は、大気で私たちを包み、宇宙の一部である私たちであるけれども、直接宇宙にさらさせず、「存在」させていてくれてる。それは自然のもとに成り立っている。
ここでいう自然というのは、森林とかの自然ではなく、そのままとか、本来の姿とか、当たり前のというニュアンスである。一番はじめに、自然とは、私たちの存在をより強調しているものといったが、それは当たり前もことなのである。なぜなら、私たちが「不自然」と思う時、とてもぎこちない感じをおぼえたりする。ぎこちないというのを大げさに言ってしまえば、その場にいずらいとか、はっきり言ってしまえば、存在しずらいのである。自然淘汰という言葉があるように、自然に適応しなくなったもの、つまり存在が「不自然」になってしまったものは、消えてしまうのだ。
これらのことをふまえればわかる。宇宙には様々なものが存在している。星や銀河、ブラックホール、時には生命も。そのそれぞれが存在出来るのは、それらが「自然」だからである。もし不自然だったら消えてしまう、存在できないのだ。しかし私たちは、確かに宇宙にほっぽり出されたら、存在できない。でも地球という存在を通して宇宙に存在している。地球という自然を通して、宇宙という自然に存在しているのだ。
そう考えると宇宙というもの自体も「存在」しているということは、宇宙が自然だからだろうことである。そしてそこに存在するものすべても自然である。私たちは不自然の中では存在できない。それは、私たち自体が自然で、自然のなかに存在しているからだ。宇宙もそうなのだ。「自然」は「存在」をつくり、またそのものなのだ。
そう考えると宇宙というもの自体も「存在」しているということは、宇宙が自然だからだろうことである。そしてそこに存在するものすべても自然である。私たちは不自然の中では存在できない。それは、私たち自体が自然で、自然のなかに存在しているからだ。宇宙もそうなのだ。「自然」は「存在」をつくり、またそのものなのだ。
目次へ
以上が今年度の課題といくつかの解答でした。
これをもとにまた次年度の課題ができます。
背景は百武彗星、八ヶ岳高原ヒュッテにて撮影。(PentaxSP 55mmF1.8固定)